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 秋旻に時来たる

 寒気に似た痺れが頭の奥に居座っている。
 首筋はちりちりと火照り、布一枚の感触さえも鬱陶しい。何も触れてくれるな。襟ぐりが狭い部屋着を脱ぎ捨てたら、いつの間にかゆったりとしたシャツを着せられていた。そばがらの枕がうなじに触れることさえ嫌で、むずがるように頭で押しのけた。
「桔平、横向きになれ」
 大きな手にそっと転がされる。心臓を下にして横になると、解放されたうなじが清々しかった。だらりと垂れた腕を丸めた布団の上にのせられる。腕の位置も落ち着いて、どうにか太い息を吐く。
 腹の奥が疼いている。
 男の生理現象としてわだかまる熱とも違う。ぐちゃぐちゃに搔き混ぜられて煮立てられて、そして固められていく。そんな痛みにも似た疼きだ。頭と首筋は寒いのに、腹が熱い。桔平は譫言のように呟いた。
「……あつい」
「ちゃんと面倒見るけん、もう寝れ」
 寝ても寝ても寝足りない。幸いにも体の変調は眠りを妨げることなく、それどころか深い渦の奥底に引きずり込もうとした。子供のころ40度の熱を出したおり、見上げた木造の天井がぐるぐる回っていたことを思い出す。あのときは目を閉じても闇が渦を巻いていた。怖くて辛くて吐いた。
 吐き出すものさえもはやない。
「そこにいろ……」
 図体のでかい影が心配そうに覗き込んでいる。八つ当たりのように吐き出すと、嬉しそうにうなずくのが見えた。誰のせいだ。
 そしてまた、暗転。

 一週間、夢うつつのように桔平は過ごした。
 生活能力があるとはとても思えない元凶が、せっせと世話を焼いてくる。ぬるいお茶を流し込まれ、飲むゼリーの吸い口を含まされた。寒さと火照りに引き裂かれそうな体から、汗で湿った服がはぎとられる。温かいタオルで全身を拭かれる。誰に享受されたのか、たどたどしくも悪くない手つきだった。
 ぼんやりとされるがままの意識とはまた別に、思考の片隅から冷めた目で眺める自分がいた。どんどん体の感覚から切り離されて、他人事のように世話をされる己の体を俯瞰していた。
 きっと消えていくアルファの残滓だった。
 うなじを噛んで手に入れるべきオメガも見つからないまま、競い争うべき他のアルファに浸食されていき、不要だと追い出される性別。ばかなやつだ、と脳内で負け惜しみがこだまする。アルファを選んで性別さえ変えてしまった千歳を。拒むどころか無意識に受け入れていた己を。顧みられずただ消えていくだけの────。
 嘆きに似たさみしさは、わんわんといつまでもこだましていた。

「桔平、起こすばい。口開けらるるか?」
 看病にも慣れた千歳が、返事も待たず体を起こす。背中を支えられ、吸い飲みを口に当てられた。甘ったるいスポーツドリンクが少しずつ口の中を湿らせていく。
 喉を通って胃の中に落ちる、感覚がわかる。冴え渡っている。
「……今何日だ」
「十五日ばい」
 日曜日だな、と桔平は脳内のカレンダーを繰った。薄い膜越しに認識していた世界が、ぱちんと弾けて意識の中に飛び込んできた。支えられたまま見上げる、骨ばった顎に目を眇める。
 頭の中でただ再生するだけだった言葉が、きちんと音となっている。口が動く。支えられている体勢がプライドに火をつけた。
 動かそうとすれば、もはや腕は自在に動いた。足に意識を向ける。ぴくり、動く。
 探るように遊ばせた腕が布団に触れ、ぐっと力を込めて起き上がった。
「無理せんと」
「……くそ、一週間寝てた」
 見上げた千歳の目の下には、うっすらとしたクマが刷かれていた。少年から青年へと羽化し終え、肉の落ちた輪郭よりもなお削げている。慣れない看病に疲れ果てているだろうに、焦げた目の奥にはぎらぎらとした光が宿っている。
 獲物を狙う獣の目だ。一瞬でも射すくめられたのが腹立たしく、変わらぬアルファとしての渇望が心地よい。────ああ、本当にオメガになってしまった。
 気づけば触れることさえ厭わしいうなじの過敏も、腹の奥が作り替わる疼きも収まっていた。しんと凪いだ、深い海が揺れている。月光に掻き立てられるアルファの獣性ではなく、原初の海が抱く果てしない生命のみなもと。それが己のからだに備わったのだと、誰に教わるでもなく理解した。
「杏は」
「ちゃあんと連絡しといたばい。心配しとったけど男ん子ん事情やて言うて押し切った」
「……もう少しろくな言い訳はなかったんか」
「俺んきしょくは知っとったけんな」
 去ったはずの頭痛がぶりかえして、桔平はこめかみを押さえた。杏ももう大学生なのだから過保護にするつもりはないのだが、ベータである妹にバース性の生々しいあれこれを知られたくないというのも本音だ。
「看病の仕方も杏からか?」
「そうばい」
 千歳がなぜか誇らしげに胸を張る。口説きたい相手の妹、しかも年下に頼ってどうするなどと言っても今更だろう。中学の頃はお互いにもはや兄妹のようなものだった。桔平もお世話になった千歳の母にすべて知られているよりはましだと思うべきか。否か。
 しかし道理でそこそこ行き届いた世話の仕方だったはずである。
「千歳」
「きっぺー」
 名を呼んだとたん、見えないはずの尻尾がぶんぶん振られているのが見えた。犬属性だったかこいつ、と桔平はひそかに思った。どちらかと言えば自由気ままな猫に似た奴だったはずだ。
 千歳の目を見る。
 飢えた光もそのままに、きらきら輝いていた。
 はぁー、と肺腑の底にわだかまっていた、最後の陰りもすべて吐き出す。
 いまさら何を抗ったところで、ことは成されたのだ。
「……腹が減った」
 一週間、朧気ではあるが水分とゼリー飲料しか摂っていないはずの胃は空っぽだ。第二性別も本能さえも書き換えるのにいかほどエネルギーを使ったのか。持ち上げた手の甲には軽く筋が浮き、骨の形がやや見える。健康で鍛えている男子だからこそこの程度で済んだのだろう。脂肪のない体で入院もせずよく持ちこたえたものだ。
「すぐなんか買ってくるばい!」
 財布をひっつかんで駆けだそうとする千歳を、引き留めるのは一言で事足りた。ちとせ、その三文字で十分。
 息を吸う。
 吐き出す。
 まっすぐ目と目を見かわして、桔平は覚悟を告げてやった。
「ついでにゴムとローションもだ」
 出来上がってしまったうなじを無防備なまま、他人にさらしてやるつもりはない。桔平を変えたのが千歳である以上、手折る権利を持つのも奴だけだ。腹は据えた。差し出してやる。食らいつくかどうかは千歳次第だ。
 心配と労りに覆い隠されていた激情が、刹那、稲光のようにはしった。
「────ほんま、敵わんち」
 ふっと、脱力したように千歳が笑う。鋭くなった瞳孔が、桔平を射る。うなじがぞわぞわした。これは予感だ。食らわれる予感。
「早く行ってこい」
「すぐ戻ると!」
 普段はとても機敏とは言えないくせに、テニスのときもかくやと言わんばかりのスピードで千歳が走り出す。その背中を見送って、桔平ははは、と笑声をこぼした。
 きっと、このときを待っていた。

(22.11.03)


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